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「マウントを取ること」について考えたあれこれ

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【マウントをとる】とは、自分の優位性を周囲に示そうとする行為のことを指します。


この『優位性』というのは、なにも本当にすごいことを自慢してくるだけではなくて
「昨日寝てなくてさぁ」とか「仕事3つも重なってるからさぁ」とか、そんな聞いてもいないような「自分はこんなに頑張ってます」というアピールも含まれます。

この記事ではそんな「マウントを取ること」について、日常の中であれこれと考えたことをお話させていただこうと思います。
ざっくり言えば、愚痴ですね。


20代後半~30代になると、健康に生まれ育った人でも何らかの病気が見付かったり、大きな怪我をしたりして、入院手術を経験する人が増えてきます。

「ドラマでしか見たことない場所」「テレビや映画の中で聞いたことのある行為」をまさか自分が体験することになるなんて、絶望もあるだろうし、興奮もあると思います。誰かに話したくなる気持ちは当然で、私だって初めての検査や治療は、不安と恐怖と好奇心で誰かに聞いて欲しくてたまらなくなります。

それらを誰かに話して、共感しあったり、時には同情しあったり(傷の舐めあいともいうかもしれないけど)
そうやって気持ちを癒したりすること、情報を交換してその後の生活に活かしたりすることは大事だと思います。


ただ、それがマウントになってくると話が変わってくる。



皆さんも1度くらい出会ったことがありませんか。
「○○さんは元気だから分からないと思うけどさぁ」という枕詞や、「すごいね」「大変だったね」という相槌以外は求められていないことが容易にわかる病気自慢

大きな手術の後は、しばらくうつ状態になったりそう状態になったりすることだってあります。
ホルモンバランスは乱れるし、身体的な負担は精神にも直結する。

皮膚を切ったり刺したりして体内をいじるって、やっぱりとんでもないことだと思うので
性格人格とまではいかなくても、これまでの価値観人生観がガラッと変わってしまう事だって珍しくないと思います。

今まであっけらかんとしていた子から突然「死」を意識するような発言が増えたり、同志のような気持ちになるのか、突然私に寄り添おうとして来たり
反対に「自分はこんなに大変な闘病生活だったのよ」という武勇伝が霞んでしまうから逆に私の前では病気の話題を一切出さなくなったりする人たちを、何人も見てきました。


「私はこんなに大変だったのよ。あなたも手術したことあったんだっけ?どうだったの?」
というようなパスが飛んできた場合は最悪
先天性でない限り、褒め称えてほしい人(共感してほしい人)にとっては、私の経験は重すぎる場合が多い。

相手を黙らせたいときにはもってこいですが、出来るだけシンプルに、大袈裟にならないように言葉を選んでも『生まれつきの心臓病』というだけで何だか強い。得意げな顔がだんだんと引きつっていくのを見るのは気分のいいものではありません。
だからいつも、愛想笑いでなんとなく話題をすり替えるしかなくなってしまう。


それから過剰に謙遜(?)されてしまうことも、どうしたらいいのか分からなくなってしまいます。

相手の様子を見て心から辛そうだなと思ったから「それはつらかったよね」と声を掛けても
「いや、でも、心臓の手術に比べたら全然大したことないと思う」
「こんなことで苦しがってたら、えふの立場になった時、私ショック死しちゃうね(笑)」

それだけではおさまらず

「私はえふちゃんみたいに強くないから」
「えふちゃんはすごいね。私なら耐えられない」
などと言い始めたりもする。
これらは、もしかすると本人は本当に褒めているつもりなのかもしれないけど、私は逆マウントと呼んでいます。

裏を返せば。というか、とても捻くれた解釈かもしれないけど
私だって自分で選んでこうなったわけじゃないし、望んで耐えてきたわけでもない。
やらなきゃ生きていられなかっただけです。
「私なら耐えられない」なんて、そんな言葉は耐えなくても良い人間の口からしか出ない



だからと言って、もしかしたら純粋に悪意なくかけてくれた言葉である可能性もゼロではないので、無駄な争いごとは避けたい。
そんなことを頭の中でこね回してしまうので、逆マウントを取られると、かえって何も言い返せなくなってしまうのです。

その人の体のことは、その人にしか分かりません。
私だって『心臓の手術』は耐えられた(ということになっている)けど、PTSDを持ってしまったし、外傷にはすこぶる弱い。見慣れない吹き出物や痣ひとつで「何か大病の前兆ではないだろうか」とおろおろしてしまうし、指先のささくれだけでテンション下がりまくり。転んで骨折なんかしようものならこの世の終わりくらいに痛がると思います。(胸骨を開いた以外、骨折は未経験です)
だから「えふちゃんはもっとつらい経験してるから…」なんて考えずに、自分の人生の中で最も苦しかったのなら苦しがっていいし、辛かったって言ったらいいのにと思ってしまう。
言ったらいい。なんていう言い方はこれまた「何様のつもりだ」という感じだけれど。



さてここまで言っておいてなんですが、正直、中途半端に知識や経験のある人間と話していると、私にもマウントをとってしまいたい時があります。

「私はそうじゃないけどね」という態度を出されたときです。


「私も全身麻酔で呼吸器入れたけど、声が変になったりしなかったよ」
と言われても、たった数時間入れて抜管の記憶もない(麻酔で眠っている間に抜管まで終わっていた)人と、意識のある中で何日も挿管していた人間が、肉体的にも精神的にも侵襲しんしゅう度合いが同じはずないじゃないか。
私が手術跡を気にしていることを知っている子から「私も手術の傷が体に残ったよ」
と見せてもらっても、カテーテルや腹腔鏡の傷とこの胸の傷はどうしても同じだとは考えられない。
「知り合いも心臓の手術したけど、もっと下の方しか傷無かったよ。なんでえふちゃんの傷はそんなに大きいの?」
と聞かれようものなら「 一言に心臓の開胸手術と言っても、正中切開と部分切開っていう切り方の種類があってね…」と説明するより先に『それは、お前を食べるためだよ!!』と頭から一飲みにしてしまいたくなる。

そんな時、言葉には絶対に出さないけど、一緒にしないでほしい。という気持ちが自分の中にあるのを感じます。


あなたになんかわかるもんか。
わかってたまるか。


悔しさや苛立ちのようなものが腹の内でがっと燃え上がり、そして静まる頃には急激にみじめになっている。

こんなことに怒っても意味がないのに。

大きな手術を経験した』なんて、偉いことでもすごいことでも何でもない。
もちろん、大きな手術を成功させた医師は偉くてすごいと思う。
そんな手術に耐えた患者の心も体もえらくてすごい。
自分では目一杯認めて褒め称えるべきだけど、これは誰かに見せびらかすような名誉ではない。

それに、私なんてまだまだ大したことない。
もっと大変な治療を耐えてきた人が沢山居るんです。

それもこれも、誰かと比べるものではないけどね。

「人のふり見て我がふり直せ」というのは、本当にその通りだなぁと、日々噛み締めています。
何でも笑えるような余裕が欲しい。大人の余裕と言うやつ。

気を付けなければいけませんね。



今日も読んでくださってありがとうございます。

おしまい。

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