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★病気と手術の傷跡について⓸開き直った話

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前回の記事★病気と手術の傷跡についての続きです。今回は高校生以降をまとめて。
手術跡や病気について、自分はどのように認識していたか。それから周りの環境はどうだったかも含めて。
※あくまでも個人のエピソードです。先天性の疾患を持った子がみんなこんな経験をしてるというあるあるではないし、私の母親が正しいとか間違ってるとかを判断してほしいわけじゃない
個人の暴露療法的記録。



高校に上がると、自転車通学が許されます。
熱どころか、ほとんど風邪もひかなくなりました。無敵かもしれなかった。
建て替えられたばかりの新品の校舎で、エレベーターが設置されていましたがほとんど利用しませんでした。
息が切れるのは変わらなかったけど、階段を上ってることすら嬉しかった。若さはじけてた。

制服はブレザーでネクタイもあったので、大きく気崩さなければはっきりとが見える心配はありませんでした。休日も部活や補講でしょっちゅう学校に行っていたし、何よりも私は制服が可愛いことで高校を選んだので、制服で過ごした記憶しかなく、傷に対して知らない誰かに何かを言われることはなくなりました。
ただ、これは後から分かったことですが、これくらいの年齢になると、ちらっと傷が見えたとしても何となく手術か何かの傷かなと察してくれるので、わざわざ本人に聞いたりしないそうですね。大学時代に友人から「見える時あったよ」と言われました。大人になるっていろいろ楽ですね。
引き続き、自分にとっては見たくないものという認識は変わらず、お風呂でも着替えでも、胸元を見ないことが習慣になっていました。
(これは傷を隠すライフハックですが、タンクトップは後ろ前を反対に着ます。胸元が詰まって安心感がありますが後ろから見ると非常にださいので、体育の着替えは素早く行ってください。)



地元にいる間は、大きくなっても母と一緒に通院していました。(年1回の定期健診くらい)
先天性心疾患専門の病院がまだなかったので、手術をしてもらった大学病院の小児科。


「もうこれ以上心機能の改善は無いというところまで来ましたね。」

え?

「もうこれ以上は良くならないということです。」

口にすら出しませんでしたが、私の頭の中は終始「?」
この状態をどこまで保てるかとか、女性ですから妊娠についても考える年齢になっていきますからとか、ですが状態としては良いので20歳頃と言っていましたが手術の必要もないですね。といったことを当たり前のように話す母と小児科医。

私も薄々は感づいていましたが、やっぱり治らないんですね。
というかもう今がピークで、後は心機能が低下していくだけなんですね。
そして今の今まで「20歳頃に手術が必要」だった話なんて微塵も知りませんでしたが、一体何の話でしょうか。
すると母曰く、5歳の手術の時に病院側からは、一旦はこれで終わったけど、体が成長した時に心臓がついていけないかもしれないので、20歳くらいに再手術が必要になると考えています。と言われていたそうです。それを小さい時に伝えて、「あと●年したら手術しないといけないかも」と不安になりながら生活するのではなく、病気のことを忘れて過ごせる時間を少しでも長く作りたかった。そしたら想定以上に私の経過が良好だったので、これたぶん手術必要ないんじゃないかなと思ってそのまま言わなかった、というのです。

なるほど。
ありがたさ半分、はめやがったなという気持ち半分。

「しなくていいって言ってたんやからよかったやろ。」
それは確かにそうですが。

とりあえずは目の前のことだけ考えて、後のことはまぁ、時期が来たら何とか考えましょう。
という思考回路は、そのまんま私に引き継がれているので、母の判断は今ならとっても納得できます。
20歳で手術する云々よりもまず無事に退院することが大事で、来年無事に昇級出来るかが大事で、このまま無事に卒業できるのかが大事だった。余計な心配せずに、今を存分に楽しんでほしいという親心。分かる。でもやっぱり一言くらい教えといて欲しかったかも。


それ以降、私はちょっとだけやさぐれます。
不良になったとかそういうことではなく、言い換えるなら開き直り
「心臓の弱い方はご注意ください」みたいな遊園地のアトラクションも乗ってやったし、怖い映画も見てやった。(どちらも心臓全く関係なくシンプルに苦手だということが分かりました)

進学校に入学してしまったので、早朝から補修、授業をこなして部活もやって塾も行く。持久力が無いので、家に帰った安心感で玄関に座り込んで寝ていたり、お風呂から上がったところで電源が切れて脱衣場で寝ていたり、家族がひやひやするから(不謹慎だけど死んだかと思うから)やめてくれと叱られながら、そうなるまで疲れたことに気付かないくらい、アドレナリン出まくりだったんだと思います。
周囲には申し訳ないけど、心臓を大切にする気持ちもありませんでした。
自分の努力と関係ない力で身体が弱っていって、いつかまた子供の頃のように制限だらけになってしまうかもしれないなら、今日全てを使い切ってしまわないと。そんなしょうもないJ-POPの歌詞みたいなスピリットで生きていました。



「どうせ治らないんだから」という思いは、一見するととても後ろ向きに感じるかもしれませんが、私にとっては陰鬱とした時期を抜け出す良い起爆剤になりました。

どうせ治らないんだから、出来ないことに憧れるのは無駄。出来ることでやりたいことを探さなければ、そのいま出来ることもいつかは出来なくなるかもしれない。
そのことに気付いてから行動に移すまではとってもスムーズでした。
運動部禁止令は守ったけど、ほぼ運動部みたいな文科系の部活(全国大会出場するくらい強い演劇部でした。演劇部の全国大会とは野球部で言う甲子園)をはちゃめちゃに頑張ってみたり、大学時代は勝手にアルバイトを3つ掛け持ち、将来的には勝手に上京したり、勝手にバーテンダーになってみたりしました。
勝手にっていうのは、病院側に黙ってってことね。(ときに病院の許可は、親の許し以上の効力を持つ)

もちろん、最低限のラインは越えない勝手さですよ。
勝手に皮膚移植したり、勝手にタトゥー入れたり、勝手に妊娠したりはしなかったから。




そこからは、ずっとそんな感じで。自分の身体を恨むでもなく、祖母に認められることを望むでもなく、このまま少しずつ疲れやすくなっていく心臓を受け入れながら生きていくのだと思っていました。相変わらず傷は見られないままでも、それはそれでいいのだということにして。

20代半ばで、体調に変化が出ます。

そして傷に対しての感情も、昨年の手術前後でまた大きく変化しました。


つづく。

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