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★病気と手術の傷跡について⓶

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前回の記事★病気と手術の傷跡について⓵の続きです。今回は小学生時代のお話。
手術跡や病気について、自分はどのように認識していたか。それから周りの環境はどうだったかも含めて。

※あくまでも私の個人的な話です。
 今回も楽しくないエピソードが含まれますので★マークつけてます。マークの意味はお手数ですがこのブログの手引きを見てくださいね。





12月に2回目の手術が無事成功し、自分の足で歩いて卒園証書を受け取れるくらい回復も順調でした。
本当に順調だったみたいで、100人に1人の回復力(それがすごいのかは不明)だとか論文に書かせてくれだとか医師たちに褒めてもらったと聞きました。

手術跡には保護テープのようなものを半年くらい貼っていました。白くて通気性がよいテープを、ハサミで小さく切って。(最近はしませんよね。縫合の仕方も変わったのかな)
汗かくと剥がれるし、服にくっついて結構邪魔だったけど、治ってきたねとか薄くなってきたねとか母が嬉しそうに貼ってくれるのは好きでした。
「勲章だ」と言われるのは引き続き嫌だっけど、聞いて聞かぬふりを身に着けていました。


幼稚園同様、小学校も普通の学校に入ります。
学校内には特別支援学級が置かれていたし、そこに入るほどではない軽度の障害(発達、肢体、内部)を持った子も何人かいました。(私もそう)
車椅子の子が入学するのに合わせて校内のトイレが改装されたり玄関にスロープがついたりもしたので、理解のある(柔軟性のある)学校だったと思っています。

新学年に上がるたびに医師からの診断書と母からの手紙(日常での注意点等連絡)を担任の先生に渡して、最初の自己紹介のときに先生から持病の説明(激しい運動出来ないとか)を軽くしてもらっていました。周りは「そうなんだ」って感じ。よくわかってないっていうのもあったと思いますけど。
学年全体で3クラスしかなかったので、高学年になるとだいたい一度同じクラスになったことがある子ばかりだから、いちいち説明しなかった気がします。

登下校は車で送り迎えしてもらっていました。ほんとは私も集団下校の中に入りたかったし、友達と待ち合わせて登校したりしてみたかったけど、学校までの片道30分くらい(田舎だったので交通機関ほぼなし)の距離を歩くと翌日は熱を出したので、何度かごねたもののすぐ諦めました。
体育は見学。保健室も頻繁に利用していました。

それはそれは、とにかくすぐに熱を出しました。いつもよりちょっと長く外で遊ぶとか、ちょっとだけはしゃぐとかそれくらいのことで。朝は元気だったのに夜になると熱が出るとか、 前触れもなく吐いちゃうとか。小児喘息も持っていたので、すぐ喉の奥がひゅーひゅー鳴って、しょっちゅうでかい吸入器で煙(蒸気)吸ってました。(持ち歩いてはなかった)
我ながら 使い辛い身体だなあと思っていました。

小学生の頃、自分の傷について特別何か考えていた記憶がさっぱりとありません。
たぶんそれくらい本当に気にしてなかったんだと思います。
オシャレに興味持つのが遅かったからかもしれませんが、子供服って首元ががっつり開いちゃう形少ない気がする。 あとは、胸部は保護するものという感覚だったので、襟元が開いた洋服は買ってもらえなかったのかもしれない。
部屋着みたいなTシャツの襟が伸び切って傷チラしてる写真はあったけど(笑)


病気を理由にいじめられたことはなかったです。
いや、正確には結構グレーゾーンかな。
幼稚園の時みたいな、こいつにだけは絶対に勝てるという位置づけで、理不尽に意地悪ぶつけられたりぶたれたりしたことはあります。体格差はどんどん広がっていくから、やり返しても無駄だって諦めるんだけど、こちらも知恵がついて来るので、そいつよりはるかに強い同級生に助けてもらってました。


それから意地悪と言えば、小学校4年生の時の担任の先生(S先生)のことは忘れません。悪い意味で。
4年生のクラス担任だったその中年女性は、とにかく怒りっぽかった人でしたが
私はその先生から逆えこひいきされていました。えこひかれなかったわけですね。伝わる?
(いじめられてたというのは言葉が強すぎるから)

例えばクラス全体がお説教を受ける時間(私語が多いとか時間通りに整列しないとか連帯責任系説教)は、主語は「みんな」なのにずっと私だけを見てるとか、誰がやったか分からない悪さは一回全員の前で私を叱る(誰なの?えふさんでしょ?)とか、クラス中が「おかしい」と気付くくらい明らかに私を標的にしていました。


最も印象的なエピソードは、ある日の私のミスがきっかけでした。うちの学校は、見学者も一応体操服に着替えて体育館なり運動場なりにみんなと同じように移動して見学をしなければいけませんでした。
体育は基本的に見学が当たり前だったから、毎回「休ませてください」という申告は必要なかったんですが、体操服を忘れてしまった日があったんです。 友達が着替えるのを待って一緒に体育館まで歩いて行ったら、そのままチャイムが鳴ってしまって、急いで友達は整列を始めているクラスメイトの中へ、私は見学エリアへ別れました。「体操服忘れました」って言うの忘れたってこの時気付いたけど、S先生はもう私の姿を捉えてしまい

「えふさん、なんで着替えてないの?」
『体操服忘れました』
「私何も聞いてないけど?」
『伝えるのも忘れてました』
「あとで来なさい」

あ~あって感じでした。あと、今日はみんなの前で怒らないんだな、とも。
そのあと「やるべきことが出来ないなんて社会に出てそんなのは通用しない」とか「信じられない」とか、そもそも私の言い忘れが悪かったけどそこまで言うかね?というような説教が続き
締めくくりは「そんなんじゃ、えふさんは心臓が弱いからいつも体育を見学してるけど、それだって嘘だと思われても仕方ないんですよ」でした。

体操服忘れたことじゃなくて、あなたがぶつけたかったのはそれじゃないですか?
別に嘘だと思うならそれで構わないんだけど、私は常にちゃんとしていないと「病気を言い訳にしてる」「病気に甘えてる」という風に感じる人が居るんだなと、学ばせていただきました。



忘れ物と心臓の話は関係ない。
病気は決して欠点ではないけど、弱点としてこんな風に出してこられるれるのは理不尽だ。だけど悲しいかな、大人になってもこういうものの見方や考え方をする人は一定数います。
倍叱られてもいいから、口答えしておけばよかった。
ここでショックを受けて咄嗟に言い返せなかったことが、癖になってしまいます。



成長と共に身体が安定してきて少しずつ運動の制限は緩くなっていくし、毎日飲む薬も無くなって、定期健診のたびに何かの制限が解除されていくので、病院に行くのは苦ではありませんでした。
仕事で忙しい母親が、病院の日だけはずっと一緒にいてくれることも嬉しかった。


5年生になる頃、体重が増えなくて困り果てていた時代が嘘のように立派な丸顔ちゃんになりました。
そのことが関係してか、6年生の時には劇的に身長が伸びます。1年で10㎝近く。一般的な成長痛として節々も痛いけど、手術跡が引っ張られて痛かったです。でも、女の子は初潮を迎えておっぱいが大きくなる時も胸部が張って痛むので、自然と周りの子たちと胸痛で話が合う奇跡の期間でした。


小さい時に出来なかったことが少しずつ出来るようになって、自分でも自分の病気を正しく理解できていなかったから、このままどんどん治っていくものだと信じていました。


つづく。

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