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★病気と手術の傷跡について⓵幼稚園児時代の違和感の話。

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外科手術を受けた人の体には必ず残ってしまう大きな傷跡
小さい時からどのように考えていたのか、どう付き合ってきたのか、という話はよく聞かれます。そしてみんながどうしてきたのか、私もとても知りたかった。
このブログを作ったときからこの話題について触れたかったのですが、気持ちが入りすぎて文章にならず、なかなか手が出せませんでした。
自分の中でも年齢や環境によって考え方は変化していったから、頭の中の整理も含めて、傷についてはいくつかの記事で書いていこうと思っています。

同時に、病気のことをどう認識していたのかなどを交えて。
今回は、幼稚園時代を切り取りました。
※あくまでも私の個人的な話です。
 楽しくないエピソードも含まれますので★マークつけてます。マークの意味はお手数ですがこのブログの手引きを見てくださいね。


先天性心疾患で生まれ、幼いころに開胸手術が必要だった私には、物心がついた頃にはすでに胸に手術の傷跡がありました。
(初めての手術は1歳半でした。もちろん何の記憶もありません。)

心臓の開胸手術には胸骨正中切開と胸骨部分切開があり、私は前者の正中切開だったので、鎖骨の真ん中から1本の長い縫い傷があります。
幼い身体には今よりももっと大きく感じたと思います。

小さい頃から心臓を治した手術の傷(それが何であるか正確に理解していたかはさて置き)ということは親から聞かされていたので
・胸が痒くても掻いてはいけない。
・体の正面にものをぶつけないよう気をつけて生活しなければいけない。
 (転ばないようにする。転んでたけど。)
・走ったり、激しい運動をしてはいけない。
という程度の認識でした。
その割には4歳までではうつ伏せで寝るのが好きだったけど。(5歳で再手術してからはあまりうつ伏せにならなかった気がします)


「きず」と呼んでいるけど、転んだ時の膝の擦り傷や、紙で指先を切った傷とは違う。兄には自転車で転んで脚に数針縫った傷があったけど、それとも違う。だからといって深く考えることはなく、漠然と違うなぁと思っていました。自分は女であるとか、家族の中で妹という位置だとか、産まれたときから決まっていたことのひとつで、それが特別良いとも悪いとも思いませんでした。

ただ、母親からこの傷のことを「元気印だ」「頑張った勲章だ」と言われることは、でした。
当時は何となく嫌だという感情でしかなかったけど、もっと丁寧に言うと「ピーマン食べるの嫌だ」とか「粉薬飲むの嫌だ」とかとは違う気持ちで、だから、どう表現したらいいのか分からなくて、そのことについて私が何かを言ったことはありませんでした。
もう少し後で分かることなのですが、この得体の知れない嫌な気持ちの正体は、違和感です。



もちろん当時は全く知りませんでしたが、私は、普通の幼稚園に入れるかどうかのギリギリのラインだったようで、園側と面談をしたり医師と相談を重ねたおかげで、何としても普通の学校に通わせたかった母の念願かなって、一般の幼稚園に入園することが出来ました。




それまでの私にとって、自分以外の子どもたちと出会うのはほとんどが小児病棟の中だったので、幼稚園に入って初めて、自分以外の健康な子どもたちと毎日過ごすようになります。そこで、いろいろと違いに気付きました。

周りのみんなは何の薬も飲んでいなかったり、どこにも傷や点滴の跡が無い子がほとんどで、むしろ入院なんて何のことだか誰も知らない。
私の抱いた違和感。それは、なんで身体に元気印がない子たちの方が元気なのかということです。
勲章というのは、何かすごいことや偉いことをした人がもらうものらしくて。それなのになぜこれ(胸の傷)のせいで私は走ることが出来なかったりみんなと外で遊べなかったりするのか。
そもそも、私はいつそんなすごいことを成し遂げたのか。全く身に覚えがないことでちやほやされたって何も嬉しくない。
頑張った頑張ったと褒めそやす大人たちは誰に話しかけてるの?それ私であってるの?
全然すごくなくていいから、みんなと同じように遊ばせてほしかった。


今なら母の気持ちはとてもよく分かります。あんな小さな体で大きな手術を経験するなんて勲章ものです。この手術があったから元気でいられてるのだから、元気印でしょう。だけどそれが理解できるのはもっと大きくなってからで、じゃあなんて説明されていたら納得していたのだろうかと大きくなってからずっと考えているけど、正解がまだ見付けられません


それでも私が概ね楽しく過ごせていたのは、みんなと同じことをさせてあげたいという周囲の様々なサポートのおかげでした。 幼稚園の行事に参加するために、入院中にわざわざ外泊許可をとったこともありました。
利尿剤を飲んでいたから、バス遠足は多めにトイレ休憩を作ってくれたり、山登りは担任の先生がおんぶして連れて行ってくれたり。 特に年長クラスで担任だった先生(山登りでおんぶしてくれたのは、先生の独断だった気がする)にはすごく感謝しています。
ただ、運動会だけはあまり好きではありませんでした。私だけ、先生と手を繋いでかけっこに出なきゃいけなかったから。自分の限界を知らないから勝手に走って大変なことにならないように、という大人の配慮はとても理解できますが、その時は「この子はひとりで走れない子です」って見せびらかされてるみたいで恥ずかしかった。周りから起こる拍手も、気持ち悪かった




私が入院したり療養している間に、早い子はピアノを習ったりスポーツの教室に行ったり、色々なことを身につけていました。背も小さかった私は、同い年の子たちの中にいるのに、もっと幼い子みたいでした。それにとても泣き虫だった。

お友達は沢山できたけど、集団の中に居ると当たり前に(当たり前じゃないのかもしれないけど)意地悪もされました。
わざわざすれ違いざまに「病気で走れないから(お部屋に)戻ってきたんでしょ」と吐き捨てるおませな女の子がいたり、もっとはっきりと、蹴られたりぶたれたりしたこともあった。
当時の自分がなんでそんなにたくましかったのかさっぱり分からないけど、こわかったとかそれで幼稚園が嫌になるとかはありませんでした。 殴り返したこともあったけど、力が弱いから負けちゃうんですよね。胸部は守らなきゃいけないし。
私が弱かった原因は持病のせいだけど、意地悪されたのは病気のせいというより、彼女たちにとって絶対に自分が勝てる相手が私だったんだと思います。 ちゃんと愛されてなかったんじゃないかな。お家で。勝手な推測ですけど。
ただ、力が弱いというだけで、こういう理不尽なターゲットにされることを学びました。

だけどいつか絶対元気になって強くなって、そうしたらきっと足も速いし喧嘩にも負けない。そう思っていたから平気でした。将来はセーラー戦士になりたかったし。



年長さんだった5歳の冬。みんなと同じ小学校に行くため、本人はなんでしなきゃいけないか、何の手術か、あまりよく分からないまま2回目の手術(僧帽弁形成)を受けて、傷跡は上書きされます。
だけどそれも別に大きなショックではなかった。傷が大きいから時間かかってしまうだけで、いつか大人になったらきれいに治ると思っていたので。


退院後は、胸部の傷の痛みより、激しい筋肉痛でよく泣いていました。
術後寝たきりで過ごしたことに加えて、体力が戻ると背も伸びるもんだからそれはそれは痛かったです。



痛いのも、悔しいのも、全部今だけだと思っていたから、あまりくよくよしませんでした。
正真正銘の病児だったくせに、病気の子扱いされることが心底嫌だった、くそ生意気な幼稚園時代のお話でした。


つづく。

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